中国・香港で生き残るブラザーたち(2)

2年後の2002年。

僕は香港に転勤することになった。

Mは妻と一緒に香港で会社を経営、
1年に1度香港・華南地区にやってくる
Tとの協業も続いていた。

転勤前の
2001年年末に香港出張に行ったとき、
Mから紹介されたのがKである。

KはMの古巣でもある
パソナの元同僚だがちょうどそのとき
彼も会社を退職して輸出業を基軸とした
独立開業の準備をしていた。

香港ではMとKとTの協業、
友人関係ができていたところに
僕がバンダイ香港に着任する、
という図式ができあがった。

「玉利さんもそろそろ独立するんじゃないですか?」

Kが僕に対して最初に投げかけた言葉である。

事業主3人とサラリーマン1人の
奇妙な形ではあるが仲間意識ができた。

皆、30台前半の血気盛んな年代。

僕が香港に駐在していた4年間、
Tが1年に1度季節労働者のように香港に
やってくるという形で4人が同時に香港にいる形。

ことあるごとに一緒に飲んでは語っていた。

その均衡が崩れたのは2005年。

僕がバンダイを退職して
上海に行き起業をしたときである。

同時にMはそれまで
手がけてきた事業をすべて
奥さんに渡しして再就職した。

だが、上海にはTの事務所があり、
僕はそこに間借りする形で自分の事業を育てていった。

Tは相変わらず
北京、上海、香港を回っていたが、
そのうちに香港で週刊誌を出すことになった。

Kは奥さんと自分の事業を香港で展開。

Mは会社で勤務、
奥さんが事業を続けけていた。

2011年に僕は事業拡大のために
香港に再進出するかたちで事務所を出した。

2005年の独立から2011年の
香港再上陸までは出張ベースで香港へ行き
切りもりしていた。

自分にとって
決して財務的に楽ではなかったそのとき、
上海ではTと事務所をシェアして固定費を抑え
香港出張のときはMの家に泊めてもらい、
香港へ行くたびにKと飯を食いながら情報交換をした。

同時にTは北京、上海で
広告媒体としての電話帳を発行するという
かたちのビジネスを整理して、
香港・華南地区での週刊誌の発行に注力して
効率よく事業を拡大していった。

2015年現在。

我々は全員、再び香港で暮らしている。

Mはある非上場高収益オーナー起業の支社長として、

Kは輸出企業のオーナーとして、

Tは今では香港では知らぬものはいない
日本人向け週刊新聞の社主として、

皆40台半ばにはなったが、
移り変わりの激しいで香港のビジネス界で
生き残ってきたブラザーズである。

こういう仲間がいるのって良い。

海外資産運用メールマガジン【国境なき投資戦略】

投資家として、そしてFA(ファイナンシャルアドバイザー)として海外で20年間生き抜いてきた玉利将彦が独特の視点から語る海外投資の極意

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