「そろそろ言えよ。わかってるからよ」
神田の居酒屋で小さなテーブルを挟んだ
向こう側に座っているT課長。
上司1人、部下1人の
小さな課で2年間一緒にやってきた。
僕より20歳年上。
いわゆる団塊の世代、
あるいは全共闘世代と
呼ばれる血気盛んな世代の先輩。
大学が同窓だということもあり、
いろいろと目をかけてくれ、
数えきれないほどこうして2人で飲みに行った。
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社会に出て最初の職場である
N通商という神戸に本社を構える
輸出専門の中堅商社に就職したのは
海外勤務を目指してのことだった。
面接のときに、
「将来アテネ事務所に
行ってもらえる人材に育成したい」
という言葉に動かされて入社を決めた。
1991年。
大学卒業後に
ワーキングホリデービザを使って
オーストラリアでの生活を終えて
帰国した僕は24歳だった。
1年間の海外生活を通じて、
自分は日本より外国にいる方が
性に合っていると感じた。
海外で仕事ができるなら行き先はどこでも良かった。
4年間に及ぶバブル景気は
は終わっていたが、まだ実感はない頃だ。
パソコンやメール、
インターネットもまだ普及していなかった。
会社の屋台骨である
自動車の輸出部門に配属されて、
南欧や中東の取引先とテレックスや
FAXでやり取りをしながら、
タイプライターに向かって黙々と
船積書類を作成する日々。
やがて同じ部門の先輩が
カイロ事務所に赴任していった。
「よし、この次は自分だ!」
と張り切っていたころ、
日本ははじめてUSD1=JPY100に接近する
急激な円高の見舞われた。
海外諸国にとってにわかに
割高になった日本車の注文は激減。
財務状況の逼迫した会社の経営陣は
6年目の勤務中であったアテネ事務所長の
帰任を決定した。
しかし、僕はその後任にはなれなかった。
前年、カイロに着任した先輩が
なんと地中海を挟んだアテネ事務所長を
兼任することになったのである。
経費節約のための海外人員削減だった。
更に僕には社内で異動の辞令が出た。
円高で壊滅的な打撃を被った輸出専門商社は
それを逆手にとった輸入品の国内販売ビジネスを
立ち上げることによりこの難局を乗り切ろうとした。
その役目を任されることになったのだ。