1990年代前半、日本での勤務時代(3)

夜11時まで
東京の事務所で事務作業をこなし、
そのまま寝袋を積んだワゴン車で東名高速に乗り
静岡あたりのパーキングエリアで仮眠をとって
午前9時には名古屋で商談をする。

そんなことを続ける中でようやく
少しずつ利益が出るようになっていった。

すると会社はT課長が管轄していた
機械の輸出を別の部門に移して統合することを決めた。

我々の部門は国内販売専業にするという措置だ。

逼迫した会社内での業務統合。

リストラの影が迫っていた。

上司1人、部下1人。

今度は一緒に日本各地を奔走することになった。

オープン直前の大手デパートで
明け方まで商品の飾り付けをやった。

納品する商品を
自分たちで運んでいるときに蹴っつまづいて
人でごった返す大阪梅田の交差点のど真ん中で
それをぶちまけたこともあった。

2人で全国各地を駆けずり回った。

—————————————————————–

「すみません。辞めるんです」

140809palm

なんとか、
それだけを言うことができた。

ゼロから関わってきた仕事に愛着はあった。

販売網も整って、
毎月注文がくる状態まで
漕ぎ着けたことに達成感もあった。

しかし、
それは自分の目指していた
仕事ではなかった。

「紙と鉛筆出せ。
俺が辞表の書き方教えてやるよ。
知らねえだろ」

顔を上げると豪快に笑う上司の顔。

28歳。

阪神淡路大震災と
地下鉄サリン事件で世の中が騒然とする中、
僕は会社を退職することの決めた。

1995年。

その6年前に発生した天安門事件による
各国から経済制裁が徐々に解除され、
ロケットのような経済成長を示し始めた中国。

他のどこでもなく、
そこを目指すことにした。

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投資家として、そしてFA(ファイナンシャルアドバイザー)として海外で20年間生き抜いてきた玉利将彦が独特の視点から語る海外投資の極意

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1990年代前半、日本での勤務時代(3)」への2件のフィードバック

  1. 松下寛英

    何があろうと自分の定めた目的地は諦めてはいけないのですね。
    わかるような気がします。

    返信

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