戦略家、真田孔明(2)

会社を退職して取りかかった
ビジネスのパートナーが病に倒れ、
上海でゼロから自活の途を迫られていた2006年。

彼は本社からの辞令によって、
香港法人から上海法人に転勤してきた。

真田孔明。

相変わらず会社の業務の傍ら、
副業ビジネスで本業の給料の数倍を
稼ぎだしていた彼と僕は毎週末上海の
カフェにパソコンを持ち込んで
作業をするようになった。

と言っても、
一緒にビジネスをしていた訳ではない。

同じ場所で顔を合わせて
黙々とパソコンに向かってはいたが
それぞれ別の仕事をしていた。

当時、投資を通じて
ある程度の資産を築いていた僕は
物価の安い中国において暮らしてゆくのに
困らないぐらいの余裕はあった。

だが、日々の仕事がない
というのは精神的にかなり苦痛で
そこから何とか抜け出すために
彼と同じようにインターネットビジネスを
通じて収入を得ようとしていたのだ。

その頃彼は、

「お金を稼ぐノウハウ」

「英語を短期間でマスターするノウハウ」

「彼女を作るノウハウ」

という多くの人の興味を引く
情報商材を自分のメールマガジンで
宣伝しながら販売していた。

SANYO DIGITAL CAMERA

彼のメルマガ内容が良く、
数万人の読者の支持を得ていたので
そこで他の商品を紹介しても
飛ぶように売れた。

彼は一方で、

「現役サラリーマン札束の会」

という
インターネット掲示板を立ち上げて、
会員に対してビジネスノウハウのアドバイスを
行なっていた。

会員の中には
上海に住んでいる人もいて、
そのうち毎週末にカフェに集まる
メンバーが4人、5人と増えてきた。

毎週末、数人の男が
何時間もカフェに居座って
物も言わずに自分の作業に没頭しては
それぞれのタイミングで帰ってゆく、
という異様な光景が繰り広げられた。

たまに彼が
メールマガジンを配信して、
その場で数十万円の売上を上げる。

そんな
有形無形の刺激を受けたからか、
次第にそこに集まってたどたどしい
手つきでアフィリエイトなどの
インターネットビジネスに励んでいたメンバーも
少しずつ収入が上がるようになってきた。

我々はこの上海での作業会を

「上海札束の会」

と呼び、
この会は彼が再度広州へ
転勤となるまで約6ヶ月間続いた。

海外資産運用メールマガジン【国境なき投資戦略】

投資家として、そしてFA(ファイナンシャルアドバイザー)として海外で20年間生き抜いてきた玉利将彦が独特の視点から語る海外投資の極意

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