語学研修の学生なので
一応大学構内の教室に通う形の
授業のカリキュラムは用意されていたが、
そちらは1ヶ月ほど通ってあとは出るのをやめた。
代わりに3人の中国人学生と
知り合って週に1度から2度ずつ必ず会って、
中国語と日本語を教え合う形で実地練習をした。
復旦大学の電気専攻の申くん、
同じく生物学専攻の黄さん、
大連から短期の研修に来ていた李さん。
1年で中国語を習得して
社会復帰しなければならないと考えていたので
普段は部屋に籠って日本から持ってきた教本を
頼りに文法や単語をできるだけ覚えて、
彼らと会うわずかな時間は中国語を聴いて、
話すことに集中した。
こういう形の相互学習は大体
どちらかが挫折して終わってしまうケースが多いが、
僕の場合は途中で地元に帰った李さん以外の
2人とは大学を離れるまでの1年間続いた。
もっとも
「ちょっとやってみようかな」
ぐらいの気持ちではじめた
彼らの日本語学習に対する熱は早々に
覚めたのだがその後も僕に中国語を教えるために
毎週通いつづけてくれたのである。
復旦大学は中国の中でも
有数の名門大学なので2人とも
めちゃくちゃ頭が良かった。
目端の効く申くんは
卒業後数年の間に外資系の十数社を渡り歩いて
確実にキャリアアップしていった。
2〜3年後に
1度連絡が来て会ったことがあるが
そのころ25歳だった彼はもう2つ目の
家を手に入れていた。
それ以降彼には会っていないが
この行動の果敢さと早さを考えると
2000年以降の上海の不動産価格の躍進で今頃は
相当の資産を築いているのではないだろうか。
女性の黄さんは
両親2人とも復旦の教職員という
学術系のサラブレッド。
こつこつと
学問を究める努力家タイプで
のちにアメリカの大学で生物学の
博士号を取得することになる。
2000年のアメリカ横断ドライブの途中、
当時大学の研究室にいたボルチモアで
再会することになる。
そんなこんなで僕の中国語は
彼ら優秀な中国人学生の力を借りて
何とか1年を過ぎる頃には
日常会話には事欠かないぐらいの
レベルにはなっていた。