我々の活動の原点「タバコ部屋」の話

前回の申(さる)年にあたる2004年。

香港の金鐘(アドミラルティ)の
オフィスビルの21階にかつて僕が
勤務していた会社の事務所があった。

自社商品をアジアの各地域に販売するという
ミッションを担った約40名のチームのオフィス。

そこにあった4畳半程度の部屋。

ちょうどアドミラルティから
香港の高級住宅地である
半山地区(ミッドレベル)に登る道路、
コットンツリードライブを見下ろす小部屋。

通称「タバコ部屋」

香港の屋内における
喫煙規制が厳しくなっていた当時、
次第に肩身の狭くなっていた
スモーカーたちがひと息つける場所、、

のはずだった。

しかし実際はある志向を持つ
同じ顔ぶれの溜まり場になっていた。

当時の僕は香港にある
このアジア販売チームに
日本の本社から派遣された。

役員である
統括の管理職を除いた
8人の日本人スタッフは
すべて20代から30代の若手社員。

そして昼食どきや
通常の就業時間を終えたあと、
ふらふらとこの部屋に集まってくる
いつもの顔ぶれは4人。

大柄な商品開発担当のP、
香港に転勤してきたばかりのA、
チーム最年少のK、そして僕。

ちなみに
僕を除いた3名は喫煙者なので
その部屋に来て一服するのは自然だが
僕自身はタバコを吸っているわけではなかった。

なのに
なぜ入り浸っていたかというと、
そこで飛び交っている話が
とても面白かったから。

タバコ部屋のメンバーは
どこか会社組織に不適合な雰囲気があって、
成績は別にしても社内のホープとは
おせじにも呼べない面々。

しかし僕は当時
上海の不動産や金融商品の投資で
ある程度の資産を築いており、

Pは香港に駐在しながら
日本でのアパート経営に乗り出していて、

20代後半のAが
左手につけていた70万円の
カルチェの時計は売却した株の利益で買ったもの。

そしてKは
インターネットを通じた
副業だけで本社の社長を超える
年収を稼ぎ出していた。

会社でのチームの
取りまとめや上司への報告や
人事の噂話は外の人間に任せて、
そんな我々がひたすら執心していたのは
会社とは関係のない投資やビジネス話だった。

インドや中国をはじめとした
新興国が急速な成長の中にあった当時、

「HSBC香港を通じて買ったインドやBRICSのファンドが◯倍になった!」とか、

「第三の資金の置き場所としてオフショアの銀行に郵送で口座開設した!」とか、

「この場所で女子専用のアパートを経営すれば低空室率、高利回りが達成できる!」とか、

「稼いだカネは使わずネット広告に再投資してメルマガの読者を増やせば倍々で売り上げが増える!」

など、
ニヤニヤしながら
語り合っていたのだ。

翌年僕は開業のため
会社を退職して上海へ行き、
タバコ部屋もあとにしたが
会社員人生の楽しい思い出である。

その後、
香港で建物内での喫煙が
完全規制されたのを機に
タバコ部屋は姿を消したらしい。

ところがほどなくして、
タバコ部屋メンバーの
一人だったKが転勤になり、
偶然僕のいる上海に住むことになった。

二人にはなったが
同じ上海に住んでいる者同士、
「タバコ部屋のつづき」とばかりに
毎週末カフェにパソコンを持ち込んで、
それぞれの仕事をしながら
ビジネス・投資について語りあうことになった。

しばらくは
二人きりで続けていた作業会。

「もっと仲間がいると良くね?」

と当時流行っていた
MIXIで仲間を募集してみたら
上海在住の数人の日本人から申し出があり、
毎週市内のどこかのカフェに集まることになった。

メンバー同士が
何かの仕事を共同で行うわけではなく、
各自がインターネットでの情報発信や商材の販売、
アフィリエイトなどを独自に黙々と取り組む。

そして誰からともなく
ビジネスについてのアイデアや質問が投げられると、
皆が手を休めて意見を交換し合うということが
自然発生的に起こった。

そんなことを繰り返すうちに
だんだんとそこにいるメンバーが
一人、二人と収入を挙げられるようになってきた。

我々はこの会を

「上海札束の会」

と呼ぶことにした。

海外資産運用メールマガジン【国境なき投資戦略】

投資家として、そしてFA(ファイナンシャルアドバイザー)として海外で20年間生き抜いてきた玉利将彦が独特の視点から語る海外投資の極意

お名前(姓)
お名前(名)
Eメール

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

海外資産運用メールマガジン【国境なき投資戦略】

投資家として、そしてFA(ファイナンシャルアドバイザー)として海外で20年間生き抜いてきた玉利将彦が独特の視点から語る海外投資の極意

お名前(姓)
お名前(名)
Eメール